日記:20231219 ほんとのほんとに眠い

 眠ってご飯を食べて眠って液晶を見つめてまた眠ってのそのそと動く、そんな生活。

 色んなものを投げ出したくなるが、実際わたしが抱えているものなんてほとんどないし、数少ないそれらもすかすかである。重たいものは全部わたし以外の誰かが持っている。わたしは他者に助けられて生きている。自分ばかり不幸なんてことはありえない。むしろ逆だ。わたしはよく眠りよく食べて余暇をたっぷり過ごす生活を送っている。幸せ。これ以上ないほど贅沢。できるだけ死にたくならないように生活環境を整えてきたつもり。その結果がこれなのだから、誇って、持て余すくらいなら誰かに分け与えればよくて、それをしないのはひとえに私が怠惰だからに過ぎない。誰かわたしをぶん殴るか、脳に電極突き刺すかして、劇的に変えてほしいと思う。それも全部甘え。克己心がない。向上心がない。ないなら作ればいい。相応に振る舞えばいい。心の拠り所がほしい。宗教に縋りたい。縋れない。死んでしまいたくなる。逃げているだけ。どうしたらいい?わかっていてもやりたくないんだから、もう、どこまでも私の自意識の問題でしかない。そのうえで助けてほしい。誰かに。誰かって誰のこと?自分か。

 

 眠たい。眠たくて眠たくてずっとこのまんま痺れるほど眠ったら起きてソシャゲ開いて眠る。カスの小夜子。

 自殺することを考えたとき頭に思い浮かぶのは親のこと、祖母のこと、私を片付ける特殊清掃のひとのこと。修学旅行で死にたくなってた時は引率の先生と担任の先生のことが思い浮かんだ。その人たちのことを考えたら、私はここで死んではいけないのだと思って、耐えた。修学旅行のときは、家族のことはあんまり私の頭に出てこなかった。代わりに視界にいる先生のことが強く出てきた。あの他者への義理みたいな感覚、わたしが死んだ後に起きる問題を考える力が、死んでしまいたいという願望、死んでやるという衝動に負けたとき、自殺できるのだとわかった。一緒に過ごした時間が長い家族よりも教師のほうに義理の感覚が強くはたらいたあの時間は、結構特大のチャンスだった。頭がうまくはたらかないと、他者への義理も思考も薄くなる。もっとちゃんと“鬱”にならないとあの状態に行けない。行けなくなったのだから、私は生きていくしかない。笑顔で。

 親も祖母ももうしばらく生きそうなので、多分私も死ねない。そのしばらくが耐えられないだろうから、自分より大切なものを作ってそれに心血を注いで自分のこと自意識のことなんかどうでもよくしてしまいたい。そしてそれは世間一般的には親孝行の一つとして扱われているから、やらない理由はそんなにない。自我なんていらない。他者に奉仕するだけの存在になりたい。からっぽにしたい。苦しいと思って毛布に包まって眠っているうちに一日が終わる。身体ばかり年季が入っていく。精神がいつまでもいつまでも未熟でいる。なにもできない。そんな自分を変える気もない。おしまいです。人生はおしまいしてくれません。健康な肉体がもったいない。そう思ってます。本当です。

 

 まぁヘラってるのも急に寒くなったせいでしょう。そういうことにしたい。そういうことにして生きてるよ。

 

 冬の夜勤明けの時間帯は夜の延長ぽくて、街がまだ死んでて、歩くのが気持ちいい。わたしは結構ギリギリまで人との関わりを減らして、金で色んなことを解決している、資本主義社会のおこぼれを大量に得ている人間なのに、資本主義の構造も人間全体のことも恨んでる。ひとけの少ない平日のカフェチェーンでカフェインをすすりながら、皆んなずっと眠っていればいいのにと本気で思ってる。矛盾のかたまりです。イェイ。

 もうダブルピースするっきゃないんですよ、こんな日にはね……。