日記:20220911 LIVEを観たよ

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 昨日大森靖子さんのライブに行ってきました。

 嬉しい、楽しい、悲しい、おぞましい、くるしい、すごい。それぞれの言葉がピタリと当てはまる瞬間と、どれとも違って端的には表現しえない瞬間の連続。

 救われる、救われたと感じてしまう。その瞬間ごとに彼女を人間ではなくしてしまう。それなのに救われたとやっぱり思ってしまう。

 靖子ちゃんにようこそと言ってもらえると、この瞬間は私はここにいていいんだと思える。

 彼女のパフォーマンスをまた生で見ることができて良かったです。心からそう思います。

 Sugerbeans さんもありがとう。さっちゃんのセクシーカレーのとき、彼のキーボードの伴奏がちょっとびっくりするほど綺麗で、それで私はわたしの特別を想起しました。そのことにもびっくりした。ライブで聴くまで、この数ヶ月自分がこの曲にわたしの特別を(勝手に)投影してしまっていたことに自覚がなかったんですよね。彼の演奏が増幅させてくれました。

 本当に、良いライブでした。

 

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 明日から日常が始まる。

 昨日元気をもらったし今日も楽しかった、だから明日からも頑張れる。

 そうは思えない。

 楽しいは楽しいままでずっとそのまま楽しくありたい。ずっと。でもずっと楽しいを続けていたら感覚が壊れてより強い刺激じゃないと楽しくなれなくなってしまうんだろう。それは嫌だな、とは思う。真っ当に。

 でも日常では感覚を麻痺させて生きているので、つまりそれはそれで感覚が壊れてしまいそうな嫌な日々なんですよね。なんとか、音楽を聴いたり、好きなYouTube チャンネルの動画を観たり、信頼できる人たちのTwitterアカウントを見たりして、日常の苦しみを緩和している。根本的に生きるのが苦しい。苦しいです。

 

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 昨日は数年ぶりに会った友人と沢山お喋りをした。

 私が選んで付き合っている人がそうなってしまうのか、それとも同世代の人間が同じ悩みを抱えているものなのか、最近人と会うと人生の話ばかりしている気がする。私が人生のことばかり考えているせいで、話をそっちに持っていってしまっているのかもしれない。そうかも。関係者各位、すみません……。

 どうしても人生のことを考えてしまう。

 私は恋愛のパートナーと生活を一緒にしたいとはあんまり思っていないのだけれど、でもそうしちゃった方が生きやすい圧倒的な現実の前でぼうっとしている。結局わたしは日々感覚を麻痺させて生きるようになっているわけで、今更。普通を取り繕って生きようとしているくせに今更だろ。ぜんぶ諦めてしまえばいいのにと思う自分がいる。でも諦めて、諦めたくせに苦しくなって、また逃避癖が発動したら。なにもできなくなったら。無人駅のホームにしか居場所がない日々が来たら。こわい。こわくて何もしたくない。

 いっそ子どもができてしまえば自分のことなんかどうでもよくなるんじゃないか。自分のことをどうでもいいと思えるんじゃないのか。でも思えなかったら?ただでさえ自縄自縛の現状に、自分を縛る縄が増えるだけだ。明確な犠牲者と共に。最悪。

 

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 世界に復讐する気概もなく這いつくばって生きる日々だから、掬い上げられている瞬間がずっと続けばいいのにと思ってしまう。

 恵まれた環境にいるくせにこんなこと書いちゃう自分のメンタリティも嫌。

 こんなの書いて電力消費してないで早く寝た方がいい。

 

補足:

靖子ちゃんのライブに行った話から始まったのにきれいな内容を書けなかった。あの空間あの瞬間に明確に自分の居場所を感じてしまうから、日常の居心地の悪さを改めて思い知る。熱中症なりかけで経口補水液飲んだらメチャうまくて自分が熱中症寸前だったの実感するみたいな。ちょっと違うか。