日記:20230414 SO BAD SO BAD

日記:20230414 SO BAD SO BAD

 

◼️

 来月のカード引き落とし額が、家賃や奨学金返済を引いた手取り額を上回ることが確定しており、慄いている。

 無駄遣い……はしている、推しのホワイトデーグッズを買ったしガシャを回したし……。ただ今回の出費の大きい割合を占めているのは、今月末東京に行くための交通費宿泊費と妹の就職祝いなので、まぁ……まぁまぁ……という感じ。ちょっとちゃんと自炊をしたり、要らないものをメルカリに出したりしなきゃな……と思っています。

 収支を見直すなかで、スマホの契約形態を変えようかなと思い、手が止まる。キャリアメールを辞めて格安プランに変えれば、1000円単位で月額料金が安くなるので、やらない理由はそんなにない。そんなに、ということは、若干はあるということで、その若干に心が引っかかっている。

 キャリアメールの受信トレイの中には、私が学校に行かなくなった頃に母から送られてきたメールが何通も残っている。メールを見返したことはない。ただ、未だに、出席日数が足りなくて高校を卒業できない夢を見ては全身に汗をかいている身である。ずっと、私の、罪だ。紛れもない罪の証が受信トレイに残っている。プランを変えればキャリアメールが使えなくなるから、それらのメールともおさらばだ。そのことが、いけないことのように思えて、踏み出せない。どうせ向き合っていない罪なのだから、表面上は何も変わらないのにな。根本的解決にならないところで変に自罰的になることで悦に入る癖が抜けない。誰かおれの頭を殴って正常にしてくれ。

 

◼️

 先日仕事辞めたいゲージが満タンになったので、辞職を非常に前向きに考えております。ただ今仕事を辞めても何のスキルもないプー太郎が爆誕するだけなので、もうちょっと身の振り方を確定させてから辞めることにしようかと思案している。でなければ超絶人員不足の現職をうまく辞められる気がしない(言いくるめられる気がする)し、先立つものも無い。仕事辞めたいゲージは満タンにはなったものの、現職は年休が多いという魅力があるのでこれを活かさない手はない。今からでも院を調べて、夏の院試に間に合うように勉強を始める。院試がダメだったら、就職するかどうか迷ってやめた所に第二新卒として挑戦する。そうする。そうする。次の道が決まっていれば辞めざるを得ない。決めてやる、決めてやる、両方ダメならその時はその時だ。

 やってやる、と思いながら、ふとした瞬間に足元が揺らぐような感覚に陥る。私は、だらだらだらだら大学まで行かせてもらって、姉妹のなかで一番家に迷惑をかけているのに、何も、家に還元できていない。私くらい、私くらいは家庭を持って孫の顔を親に見せるべきなんじゃないか。姉妹には結婚する気配がないから、私くらいは。私は、自認としてはフェミニストなのだが、もう闘いたくないな、と思ってしまうことも往々にしてあって、特にこういう時には強く思う。おとなしく子どもを産む機械になって、時給数百円の扱いやすい労働力になってしまいたい。それで父と母が少しでも喜ぶなら、それでいいじゃんか、と思ってしまう。分かってる、それじゃ何にも変わんないから、私もほんの僅かでも世界に抗ってやりたくて今足掻いているのに、でも罪悪感に耐えられなくて何もかも手放してしまいたくなる。だってもう私が根源的にやりたいことなんて無いんだから、家族にとって都合の良い存在になってしまえばいいのに。それができないのは、くだらない意地を張っているから、自分が自分しかかわいくないから、怠惰に生きているから?そうでなくて何だと言うんだ?

 日記にも何度か書いているが、社会的に価値があるとされるのは、きっと、私がごちゃごちゃとやりたい風のことをやるよりも、再生産の手段になってしまうことの方だ。そうなってしまえばいいのに、どうしてそうなってしまえないのか、ずっと頭のなかがぐるぐるしている。結局内心の問題だから誰に相談できることでもない。せめて代理母にでもなれればまだマシな気がするが、倫理が追いつかない。究極的には、私はこのむやみに健康な肉体を持て余している、という話に収束する。贅沢者なのです。

きみは『世界征服』を知っているか

 知ってる? ならいいです。

 良いアルバムですよね。

 

 Neru氏のアルバム、『世界征服』が発売されてから今日で10年が経ちました。

 おめでとうございます。

【3/6発売】世界征服 / Neru feat.鏡音リン、鏡音レン - ニコニコ動画 (nicovideo.jp)

 このクロスフェード、めちゃくちゃかっけ〜んですよね。

 リンレンが呟く「世界征服」。かっけ〜〜〜〜〜。当時めちゃくちゃときめいたのを覚えています。

 

 せっかくだし、ちょっとしたエッセイ的な回顧録的なものを書いておこうと思いました。

 以下エッセイ的な回顧録的ななにかです。

 

 10年前の3月。

 当時の私はNeru氏のファンではあったけれど、特別熱心なファンではなく、『世界征服』を購入したのも『ハウトゥー世界征服』の動画が投稿された後だった。

 初めて『ハウトゥー世界征服』を聴いたときのことは、はっきり記憶している。私は中学二年生だった。家族にバレないように足音を殺して忍び込んだ姉の部屋で、姉の部屋にある家族共用のノートパソコンにウォークマン付属のイヤフォンを挿して、部屋の電気を点けないままで、姉がバイトから帰ってくる前に引き上げなきゃとドキドキしながら、膝立ちで、薄暗闇に浮かび上がるパソコンのディスプレイのなか、ニコレポに表示されている動画をクリックした。当時まだTwitterのアカウントこそ持っていなかったけれど、複数の活動者のTwitterアカウントページをブックマークに登録・チェックはしていて、その中にNeru氏やしづ氏のアカウントを含んでいて、動画が投稿されることは知っていた。だから夕飯前に、ドキドキしながら姉の部屋に忍び込んだ。

 発表している楽曲にゴリゴリのバンドサウンドが多かったNeru氏にしては珍しい雰囲気の曲に少し驚きながら、しづ氏の手がけるキメが格好いい動画に見惚れながら、動画を視聴した。

 

「どうせ幾年経って車が空飛べど きっと何年経って機械が喋れども 何だって言いたいんだ 便利って言う前に 心の傷口を治してくれ」

「死にたいとか そんな歌を歌って またそれかと杭を打たれた だけれども それ程の事しか 口から溢れる言葉がどうしても見つからないや」

 

極めつけは、「優しい人にならなくちゃ 僕は僕を肯定していたい」。

 私は、私のことを分かってくれる曲を書く人に出会えたのだと、本気で思った。

 次の週末に、近所のTSUTAYAに行った。『世界征服』がCD売場の棚の下の方に、しっかりと陳列されていた。お年玉で買った。

 どきどきしながら家に帰って、開封する。特典のストラップは東で、マウスパッドは少年少女カメレオンシンプトムの柄だった。アルバムを聴いたのはその日の夕飯の後だった。ラジカセの蓋を開けてディスクをセットし、できるだけ小さい音量で流した。ボーカロイドの曲だとバレないように、家族が近づいてきたら音を止められるように。聴きながら歌詞カードを見つめた。東京テディベアから始まり、グッバイ、ロックンロールに差し掛かるころ、私は泣いていた。私のことを分かってくれる歌がここにある。苦しみや寂しさに寄り添ってくれる歌がここにあるんだ、と強く思った。

 動画版よりも迫力を増した歌声になった東京テディベアは、ラストの音も少し変わってより切実にきこえる。印象的なギターリフはじめ勢いの強いサウンドに、誰もいない教室で叫ぶような詞が畳みかけられるロストワンの号哭。苦しくなるほど赤裸々に、刺すように歌われるアブストラクト・ナンセンス。一曲のなかで何度も雰囲気を変えながら「全部僕が悪い」を突きつける延命治療。グッバイ、ロックンロールでリンレンが淡々と歌う厭世が心地よい。サウンドにも詞にも「悲しみ」が溢れ、とめどない自己嫌悪を感じるかなしみのなみにおぼれる。暴力性をまといながら「神様なんていやしないって何でわからないんだ」と苦しげに歌うオーヴァースレプト。ひとりの少女がかなしく語る様がありありと想像できる21世紀イグゼンプリファイ。強い言葉が多用される詞と鋭いサウンドとは裏腹のタイトルをかかげる優しい人になりたい(そして裏腹だからこそタイトルが印象的に光る)。間違いなく「格好いい」し、「盛り上がる」展開のサウンドに拭えない無力感が漂う再教育。どこか繊細さすら感じさせるAメロBメロCメロと爆発的なサビに、絞りだすように叫ぶ詞を乗せる少年少女カメレオンシンプトム。ガラクタから目を覚ます、そんなある種の王道をうたうガラクタ・パレード。まさしく一つの劇のように曲が展開される小生劇場。アルバムの締めくくりに「優しい人にならなくちゃ」を歌うハウトゥー世界征服。全部はここに書ききれない。まして私は音の感覚が鈍いから演奏について語ることがうまくできなくて詞についてばかり語ってしまう。どうしたって片手落ちになる。それでもほんの少しでも、私がすくわれたと感じたことを表現したいと文字を打ち込む。今までもそうだったし、今日のこれもその一部だ。

 容量8GBのウォークマンに『世界征服』を取り込んで、何度も何度も聴いた。

 ウォークマンでよく聴いていたのはグッバイ、ロックンロールと優しい人になりたいとオーヴァースレプトだった。他の曲は既に動画で投稿されていて、ニコニコ動画で何度も聴くから、ウォークマンで聴くときはアルバム限定曲を中心に聴いていた。聴いていると胸が苦しくなるけれど同時に安心できた。当時の私の、心の黒い部分を掬ってくれるように感じたのだ。

 

 あれから10年が経った。私は中学を卒業し、高校を留年し、高校を卒業し、実家を出て、大学を卒業し、今はどうにかこうにかサラリーを貰って生活している。

 私が『世界征服』を購入したTSUTAYAは数年前に閉店してしまって、空いた建物には学習塾が入っている。実家に帰省するたびに、周辺に新しい家や学習塾、ドラッグストアが増えていることに気付かされる。近所にあった田んぼや山は潰れ、住宅地になっていく。今度地区に新しく小学校が増えるらしい。(私の地元は、少子高齢化がすすむこの国には珍しく、子どもが多い地域だ。)

 思春期の孤独をすくわれた気持ちになれたあの日からもう10年経つのかという思いも、そりゃ10年経ってるわ、色んなものが変わっているし、という思いもある。

 10年後も『世界征服』を聴いて泣いているよと伝えたら、当時の私はどう思うだろう。

 変わらない(ように見える)自分に安堵するのか、変わらない(ように見える)自分に呆れるのか? もはや分からない。

 

 「征服だの何だの 抜かした奴はどいつだ そんな事言う 大馬鹿者はいないよな」

【鏡音リン】 テロル 【オリジナルPV付】 - ニコニコ動画 (nicovideo.jp)

 ハウトゥー世界征服が投稿されてから1年と数か月後に投稿されたこの曲でこう歌われているから、この時点で『世界征服』はNeru氏のなかで過去のものになっているのだろうと考えている。況や今をや。

 実際のところ、自分も今初めて『世界征服』を聴いたとして、14歳の頃と同じ感度で泣けるだろうかと聞かれれば、きっと泣けない。全く泣けないわけでもないとは思うが。多少なりとも、私も内面が変化してしまっている。

 私は、なりたくない大人になってしまった側の人間だ。なりたくない大人になった気分は最悪だ。日々薄い布団の中でTwitterを開いて、行き場をなくした怨嗟を込めてツイートする。苦しくて、助けてほしくて、サブスクの音楽アプリから音楽を流して、どうにか救われようとする。ろくなもんじゃない。10年前の私が見たら軽蔑するような生活を送っている。

 『世界征服』収録曲全体に漂う雰囲気を表現するならば、自己嫌悪、希死念慮、懊悩の末の爆発、自己肯定の渇望、といったものだろうか。すべて少年~青年に特有な肥大した自意識によるもの、と言ってしまうこともできる。「もはや、自分の声しか聞こえていな」くて、そんな奴だから「征服」だとのたまうことができて、そしてそいつは「大馬鹿」なのだと。私はそう解釈している。でも、だから何なんだ、と思う。論理の部分で理解できたって感情の部分が成熟してくれるわけじゃない。それどころか、私は自身の少女的な感情に対して、身につけた社会性により蓋をしたり、処理の仕方が分からず抱えたままになったりして、それらの感情がふいにコントロール不能に暴れだすことがままある。要するに、中学生当時よりも自分の感情のコントロールが下手になっているのである。そんなときに『世界征服』に縋る。オーヴァースレプトを聴きながらグッバイと呟くことでようやく自覚できる苦しみがある。「いつか夢見たような大人になんてなれやしないんだよ」を聴いてやっと涙を流せる。アブストラクト・ナンセンスで歌われるあの情動をもはや自ずから抱くことができなくとも、楽曲を通してあの情動の感覚を思い出して、それでようやく吐き出せる。『世界征服』が、すくってくれる。寄り添ってくれる。ぐじゃぐじゃになった私の自意識と感情に。それらは少女時代から私が抱いているものも、今の私が抱いているものもごちゃまぜだ。

 そして、そのすくいは私にとって絶対だ。誰が何と言おうと。作者本人であっても。

 私も「大馬鹿」だと本心から言ってしまえるようになれば、救いを求めてこのアルバムを聴くことは無くなるのかもしれない。今のところそんな見通しは立っていないので、当分はまだ、このアルバムは私に寄り添ってくれるアルバムだと思います。

 

 ひどく抒情的で主観が強く入った文章になってしまった。私にとって心の大事な場所に置いている作品だから、語ろうとすると、どうしても私的な語りから抜けられない。億が一Neru氏の目に留まることがあれば、彼にとって本意でないであろうことを書いた自覚もある。それでもなにか書かずにはいられなかった。私にとって大切な作品のアニバーサリーだから。

 10周年おめでとうございます。

 ありがとうございます。これからもきっと大好きです。

日記:20230130 気付いたぞ〜

日記:20230130 気付いたぞ〜

 

◼️

 何に?

 →勉強がストレス解消になることに。

 これは日記なので啓蒙とかではないです、一切。私がそういう人間なんだなぁという気付きを得たので文章に残しとこうというそれ以上もそれ以下もない。

 少し前からDuolingo を始めました。語学学習アプリです。大学時代、仮にも中国語2年間学んでいたし読解の授業も取ってたのに、自己紹介もろくにできないレベルで身についてないことに悲しくなったのが去年の終わり頃で、もうちょっとちゃんと勉強したかったなぁ→今学習アプリとかあるから探せば今からでも勉強できるんでは?→Duolingoって聞いたことあるな、やってみるか……の流れでスタートしました。やってみた感想ですが、ポップでキャッチーなUIで、巧みにゲーミフィケーションソーシャルネットワーキング要素を取り入れており(※適当こいてるので言葉に誤用があったらごめん)、楽しく語学学習させるぞ継続させるぞという強い気概を感じます。まぁ普通に楽しくやってます。学習内容が身についているかどうかといわれると、少なくとも中国語では筆記でやるテストがなさそうなので、漢字を覚えるには自分で書取りの練習する必要があると思うけど、繰り返しピンインがテストに出るのでこの大デジタル時代には別にいいのかも。ピンイン入力でライティングテストさせてくれたらもっといいな〜。運営さん、よろしくお願いします。

 勉強が楽しいって思うのはわりと昔からで、自分の知らない世界が開けていくのは楽しい。でも興味のあること興味のないこと、脳がうまく働く分野と働いてくれない分野が結構パッキリしているので、高校時代の勉強はかなり苦痛だった。受験のためとかテストのための勉強が大嫌いなんですよね、“本質”を損なう気がして……。(眼鏡を押し上げる動作) 

 でも今勉強が楽しいって思うのは多分それだけじゃなくて、仕事で削れた相対的な自己肯定感が埋まるからなのかもしれないとも思う。仕事では日々ミスをしたり先輩に迷惑をかけたりドッタンバッタンやっているわけですが、プライベートの勉強は得意なことだけやってていいので、これが出来る自分はそんなにダメな奴じゃないと思える。ほんとは仕事が出来ない自分自身をありのまま認める絶対的な自己肯定感をもうちょっと持っていたいんだけど、なかなか追いつかないので、こういう手法で自分を癒す。あと、脳のリソースを無為にメンヘラする方向に割かないでいられることによる安心感?もデカい。当たり前だけどメソメソしてても単語覚えても脳は疲れるんだから、だったら単語覚えて脳が疲れて眠くなる方がマシだ。でもそれが出来たら苦労はしないんだよな、できないからヘラるんだよな……。

 

◼️

 何かについて話すだけで「思想が強い」と言われることがあり、それに地味に傷つき続けて早八年くらい。

 「思想が強い」と言う側は、私の空気を読まない発言に対して場を和らげるためや、私のつまらない発言を面白くするためにそういうツッコミをしてくれているのだと理解している。私も他者の発言や自分自身に対して「思想が強いw」とツッコんだことがある。

 それでも地味に傷つく。会話の場ではアハハと笑うのだけれど、1人になった瞬間に「そうか、やっぱり私の思想って強いのか……」と落ち込む。

 私には結構「話せば分かる」精神が根強く存在している。常にではないが、お互いに対話する姿勢があるときには「話せば理解し合える」と思っている。まぁあらゆる前提が違いすぎて「話しても分からない」ことはあるし、その時は悲しいけど分からないね、じゃあここで線引きして互いに関わり合うのはやめましょうか、もう会うことはないでしょうがどうぞお元気で、と済ませるべきだとも思っている。 「思想が強い」をぶつけられると、私と世間は「分からない」の選択肢を取らざるを得ないのかな、と思ってしまう。世間とは君のことじゃないか(うろ覚え)は『人間失格』のなかでも有名なフレーズで、私も自分が思う時の世間って自分だよね〜とは思うんだけど、「思想が強い」と発言した他者は世間に属する一人であり……。オオ……。

 自分でも倫理に悖っている自覚のある考え・発言に対して言われる時はまだしも、自分では大多数の人に賛同してもらえるであろう考え方を基にした考え・発言に対して「思想が強い」と言われると、より凹む。これが「話しても分からない」ことだなんて……。世界ってもっと綺麗で大人ってもっとちゃんとしてると思ってたのに……。みたいな気分になっちゃうんですよね。そしてすぐ世界を恨んでしまう。人間(個体)のことは嫌いじゃないし愛していると言ってもいいけど人間(総体)のことあんまり好きじゃないのにはそういう理由があります。ほんとかな。屁理屈こねくり回してるだけかも。

 

◼️

 今度夢小説サイト作る時サーバーだけレンタルして自分で構築しようかなと思ってたんですけど、レンタルサーバーだと成人向けコンテンツNGだったり自分でサイト構築する時の名前変換機能どうするか問題があったりでやっぱ止めよかなと思っています。普通にどっかに間借りさせてもらおう。いつ夢小説書き始めるかは未定で〜す。

日記:20221206 いつのまにかふゆ

◼️

 1週間ほど前から、スイッチが切り替わったように気温が下がり、すっかり冬になった。それで、そういえば今年の秋は病まなかったなぁと気付いた。厳密には病んでるし布団から起き上がれない日もあったのだが、仕事を休むレベルにはいかなかったのである。リモートも多かったので、PCを点けていれば出勤していることになったのも大きかった。(注:通勤がないから最悪n日シャワー浴びてなくてもまともな服着てなくても出勤できるのが良かったという意味です。PC点けたら仕事があるので仕事はしてたよ。実績が低空飛行の日があったのは否定しませんが……)

 まともに活動ができた秋、8年ぶりかもしれない。ええ……8年て……我ながら引いちゃう……。

 

 何で今年は活動できたのかなぁと考えると、いくつか心当たりがある。

 というか、10月に帯状疱疹になったのは転換点だったと思う。言わずと知れた大人の水疱瘡リターンズみたいなやつで、若年層での発症は少ないやつだ。発症したこと自体はもちろん良くはなかった(病院代が地味にかかったりね)が、間違いなく今年の秋の自分の生活を改善するきっかけになった。

 発症のきっかけはストレスとか栄養不足とかによる免疫力の低下があるらしい。どちらもそれなりに心当たりがあった。から、どうにかしないともっとデカい病気になりかねないなぁと思い、いくつか生活の改善をした。

 

 まず1つは、睡眠の改善である。ストレス対策で、睡眠時間を意識的に増やした。仕事が終わったら、できるだけ早く寝る。目覚まし時計はかけない。私は基本12時間以上連続では眠らないので、始業の12時間前までに寝る。それで自然に目が覚めるのを待って、自然に目が覚めた時間から起きて活動することにした。早く起きれたら仕事までの間に家事をやったり資格試験の勉強(この秋は資格に1つ挑戦したのだ)をしたりした。早く起きれなかったり布団から起き上がるのがきつい時は、すっぱり諦めて始業まで布団でごろごろしたりした。睡眠が足りていても病むときは病むけど、私の「病まない」の必要条件が「よく寝る」であることに違いはないので、よく寝た。常に実行できたわけではなく深夜のネサフが止められない泣となった日もあったが、意識的に睡眠時間を増やしたことで体調が悪い日を減らせた気がする。

 

 次に、栄養の改善である。一人暮らしを始めてから1日水道水と菓子類しか口にしないこととかがザラにあった。典型的不健康食生活である。そりゃ栄養不足にもなる。オロロ……。そこでとにかく、毎日1日分のビタミンが含まれている(とされる)野菜ジュースを飲むようにした。野菜ジュースは糖分が多いというのは知っているが、それを上回る勢いで食生活が不健康なので、まだマシな方へ舵を切った次第だ。それから、起きてすぐに食事を摂るようにした。(これまでろくに朝ご飯食べてなかったんかい→はい、そうです……面倒で……) ちゃんとした料理はまだハードルがあるので、パンとインスタントスープの朝食をルーティンにした。私の場合は湯を沸かすだけならわりとできるし、ゴム手袋を使えば皿洗いへのハードルが下がることに気が付いた。ので、それでなんとかやっている。気温が下がっている時期は、あたたかいものを飲むとすこし身体がほぐれて、同時にすこし心も落ち着く。パンは袋を開けてそのまま食べたり電子レンジであっためたり、手軽に食べられるので助かる。

 これらを栄養の改善といってしまえるほど低次元の食生活を送っていたわけだが、ともかく、前よりはマシな食生活になったと思う。エネルギー切れを起こすことが減ったので、例年の秋よりは活動的でいられた。

 

 次に、運動の改善である。ジム通い始めました!とかいうレベルではない。エクササイズゲーム始めました!とかいうレベルでもない。気を抜くと一日寝て過ごす人間なので、できるだけ外の空気を吸って歩くようにした、というレベルの話だ。それでも意識的に歩く時間を取ると、身体の血がちゃんと巡る気がしてよかった。末端冷え性だから、歩くと爪先が暖かくなるのもいい。誰かと“プレイ”する運動はあんまり好きじゃないけど、一人でのたのた歩くのは好きだから、その意味でもよかった。

 

 最後に、何の改善とも言いづらく、また本当に改善かというと微妙でもあるのだが、カフェを躊躇いなく利用するようにした。先述のとおり今秋は資格に挑戦していたので勉強する必要があったのだが、私は自宅にいるとついつい床に溶けてしまう。そこでカフェで勉強することにした。数百円のドリンクを購入している分、元を取らなくては……という負のモチベーションも上がる。甲斐あって資格は合格見込みであった。うれしい。出費は嵩んだが、おいしい飲み物は息抜きにもなったので、まぁよかったかなと思う。

 

 そんなこんなの生活改善のおかげで、最低ライン以上の生活を保つ秋を8年ぶりに送れた。

 思えば、働いている、というのもよかったのかもしれない。搾取しながら搾取されているじぶんのことを省みて天井を見つめることもあるけれど、今は働いているから、浪費も節制も寄付も全部自分の責任であることが心地いい。いろんなことを自分のせいにできる方が、私には向いている。

 

◼️

 私は今でもずっと薄氷のうえを歩いている、とふとした時に感じる。いつかまた足元が割れて沈んでしまうのではないかという不安は常にある。背負っているリュックにはずっと重しが入っていて、ちょっと気を抜けば後ろに倒れ込みそうになる。そんな毎日であることに変わりはない。それでもとにかく生活を続ける。続けていきたい。けど、いつまで続くだろう。こんな生活。終わればいいと心の奥の方では思ってる。一切の苦しみなく誰にも迷惑かけずに死ねるならとっとと死にたいのは今も変わらない。“余計なこと”を考えないように、お気に入りのラジオや音楽を流しながら、あるいは夢小説のことを考えながら眠りに就く。鈍感に生きている。鈍感になりたくないと我に返って、でも感覚を鋭敏にしたらもう今日の食事を摂ることもできなくなるから鈍らせて。感度を下げて。また上げて。すぐ下げて。その繰り返し。

 でもそんな生活を健康的だと人は言うので、もっと健康的になったりならなかったりしながら、この冬をしのぎます。

 鍋のスープの素?みたいなの買ったのでこれで自炊にもチャレンジしてみようと思ってます。

 がんばるぞ~^^

日記:20221027 表面をすべる善意

日記というよりこの1か月くらい考えていたことを文字にしたのが今日だった、的なもの。

 

 少し前に帯状疱疹になった。現在、症状はすっかり落ち着き、痕が薄くなるのを待つばかりである。

 最初に発疹が出たのが、たまたま前日露出していた服のラインに沿った部分だったので、虫刺されか、植物にかぶれたのかと思った。それから数日のうちに、身体に細く響くような痛みがあらわれ、皮膚科に行くことにした。母が若い頃に帯状疱疹になったと聞いたことがあったので、もしかしてとうっすら思ってはいたのだが、本当にそうだとは。仕事を休みたかったが鎮痛剤を飲めば痛みはない。テレワークが許されている。人手は足りていない。そうなれば休む理由はない。会社のイベントのため12時間勤務などをこなしつつ、なんとか日々を繋げた。

 皮膚科を受診したとき、医師に言われた。

 早く受診してね、あなたみたいな若い女性だと、肌に痕が残るとよくないからね。

 ある程度回復してから出社したあと上司に言われた。

 もう大丈夫なの?それはよかった。やっぱり、女の人だとね。見えるところに痕が残ったりするとよくないからね。

 私は、そうですね、と言うことしかできなかった。

 頭のなかではうるせぇよと思いながら、若くても年食ってても男でも女でも、肌に痕が残るのを気にする人は気にするし気にしない人は気にしないだろと思いながら、どうせ上手に喋れないし、どうせ自分でちゃんと喋る前に感情に追い越されて泣いてしまうし。そうですね、と言って、それからすみません、とか、ありがとうございます、とかを適当に喋ったと思う。

 なんでからだのこと心配されるのに「若い女だから」って言われなきゃなんねーんだよ。関係ねーだろうがよ。私が人前に出るような、美しくあることを求められる仕事をしていたとしたらまだ言われることに理解はできる(それでもどうかとは思う)けど、社外の人と顔合わせることもほぼないデスクワークの人間が、なんでそんな心配の言葉かけられなきゃいけないのか。そう心配、気遣い、善意のことばだってわかってんだよ。若い女は自分の見た目を気にすると思っていて。若い女の皮膚に傷痕やなにかしらがあると恋愛市場で不利になるとされていて。私がまだ若者と形容される年齢であること、肉体の性別が女であること、現状性別違和を抱えていないこと、全部ほんとうだけどそこから勝手に飛躍した心配をしてくるなと言いたい。言えなかったけど。

 ほんのちょっとでも声をあげることの大切さは重々わかっているけれど、医師はきっと根っからの善意で発言したのだし、私以外の患者さんが控え室で待ってるし。上司もきっと根っからの善意で発言していて、同時に私と対話しようとは思っていないんだし。私がだいぶ良くなりましたと伝えたから、その応答として「それは良かった」を示したかっただけなのだ。「それは良かった」を示すために、自分の引き出しのなかにあるものを使っただけ。それに対して、「痕が残るとよくないってどういうことですか?」「なんで女だとそうなるんですか?男女関係なく肌に痕が残るとへこむ人は多いんじゃないですか?」なんていう会話は求められていない。求められていないからこそやらなきゃいけなかったのかな。むりだ。できない。

 こんな些細なことで悩めるなんて幸せだなって冷笑する自分が存在しているのもいやだ。嫌だ。気持ち悪い。

 こういうことがあると、つくづく無性の存在になりたいなと思う。そしたら性別を理由に『優遇』されることも線を引かれることもないのに。

 FLATな世界で生きたいよ。

日記:20220911 LIVEを観たよ

◼️

 昨日大森靖子さんのライブに行ってきました。

 嬉しい、楽しい、悲しい、おぞましい、くるしい、すごい。それぞれの言葉がピタリと当てはまる瞬間と、どれとも違って端的には表現しえない瞬間の連続。

 救われる、救われたと感じてしまう。その瞬間ごとに彼女を人間ではなくしてしまう。それなのに救われたとやっぱり思ってしまう。

 靖子ちゃんにようこそと言ってもらえると、この瞬間は私はここにいていいんだと思える。

 彼女のパフォーマンスをまた生で見ることができて良かったです。心からそう思います。

 Sugerbeans さんもありがとう。さっちゃんのセクシーカレーのとき、彼のキーボードの伴奏がちょっとびっくりするほど綺麗で、それで私はわたしの特別を想起しました。そのことにもびっくりした。ライブで聴くまで、この数ヶ月自分がこの曲にわたしの特別を(勝手に)投影してしまっていたことに自覚がなかったんですよね。彼の演奏が増幅させてくれました。

 本当に、良いライブでした。

 

◼️

 明日から日常が始まる。

 昨日元気をもらったし今日も楽しかった、だから明日からも頑張れる。

 そうは思えない。

 楽しいは楽しいままでずっとそのまま楽しくありたい。ずっと。でもずっと楽しいを続けていたら感覚が壊れてより強い刺激じゃないと楽しくなれなくなってしまうんだろう。それは嫌だな、とは思う。真っ当に。

 でも日常では感覚を麻痺させて生きているので、つまりそれはそれで感覚が壊れてしまいそうな嫌な日々なんですよね。なんとか、音楽を聴いたり、好きなYouTube チャンネルの動画を観たり、信頼できる人たちのTwitterアカウントを見たりして、日常の苦しみを緩和している。根本的に生きるのが苦しい。苦しいです。

 

◼️

 昨日は数年ぶりに会った友人と沢山お喋りをした。

 私が選んで付き合っている人がそうなってしまうのか、それとも同世代の人間が同じ悩みを抱えているものなのか、最近人と会うと人生の話ばかりしている気がする。私が人生のことばかり考えているせいで、話をそっちに持っていってしまっているのかもしれない。そうかも。関係者各位、すみません……。

 どうしても人生のことを考えてしまう。

 私は恋愛のパートナーと生活を一緒にしたいとはあんまり思っていないのだけれど、でもそうしちゃった方が生きやすい圧倒的な現実の前でぼうっとしている。結局わたしは日々感覚を麻痺させて生きるようになっているわけで、今更。普通を取り繕って生きようとしているくせに今更だろ。ぜんぶ諦めてしまえばいいのにと思う自分がいる。でも諦めて、諦めたくせに苦しくなって、また逃避癖が発動したら。なにもできなくなったら。無人駅のホームにしか居場所がない日々が来たら。こわい。こわくて何もしたくない。

 いっそ子どもができてしまえば自分のことなんかどうでもよくなるんじゃないか。自分のことをどうでもいいと思えるんじゃないのか。でも思えなかったら?ただでさえ自縄自縛の現状に、自分を縛る縄が増えるだけだ。明確な犠牲者と共に。最悪。

 

◼️

 世界に復讐する気概もなく這いつくばって生きる日々だから、掬い上げられている瞬間がずっと続けばいいのにと思ってしまう。

 恵まれた環境にいるくせにこんなこと書いちゃう自分のメンタリティも嫌。

 こんなの書いて電力消費してないで早く寝た方がいい。

 

補足:

靖子ちゃんのライブに行った話から始まったのにきれいな内容を書けなかった。あの空間あの瞬間に明確に自分の居場所を感じてしまうから、日常の居心地の悪さを改めて思い知る。熱中症なりかけで経口補水液飲んだらメチャうまくて自分が熱中症寸前だったの実感するみたいな。ちょっと違うか。

日記:20220830 何某かの感想など


やらなきゃいけないことが沢山ある(プライベートだけでなく仕事関連のものも積んでいる)(ウワー)んですが、そういう時に文章を書くとはかどるし、とりあえず書いてしまうと頭の中の雑念が一時的にすっきりしてやるべきことに取り組めるということがあるので、書きま〜す。いぇ〜い。逆に書くことで精神が尽き果てることもあるんだけど今日はどうかな〜。ドキドキ〜。


そして日記といいつつ昨日と一昨日のことを書きます。今日は起きてTwitter見て洗濯したくらいしかしてないし。


一昨日は匿名ラジオのトークショーをオンラインで視聴しました。現地チケットセンソー(京都ダ菓子屋センソー)に大敗北したので。
以下この章ではイベントのネタバレ兼感想を含むので嫌な方は読まないでね。

さて視聴した感想ですが……

🎶気が狂って しまいそうだ🎶

いや〜〜〜。すごかったです。
ずっと楽しかった。ずっと面白かった。
ずっと笑い過ぎてた。
オンラインのイベントってどうしてもリアルイベントに比べると迫力に欠ける(という言い方は微妙にハマっていない気がするが他に思いつかないので一旦採用)というか、ふとした時にあぁ今わたし自宅にいるなってことを思い出して気持ちが落ち着くフェーズがあるというのがここ2年強の知見なんですが、それを感じる暇がなかった。
ほんとうにずっと楽しかった。すごいことですよ。
多分まだ気付けてないギミックがあるし。
↑作り込まれた映像作品に対する感想だよこんなの。
まあ実際、作り込まれていた。
私が一番ウッワッッッッと思ったのはARuFaさんの裏垢のくだりですね。
私は最悪オタクなので裏垢発言のあと即座にTwitter開く→昆布炸裂拳で検索→見つからない→こんぶ炸裂拳で検索→発見したんですが、アカウント作成の日付見て本当に引いた。ヤバすぎ。あんな“追い詰められてぽろっと言っちゃった”感でそんな仕掛けを……する……する人なんだなぁ……。怖……。
いちばん笑ったのはどこだろう。どっかで笑いすぎて助けてくれって思ったんだけどどこか思い出せない。思い出せないということはAI台本のくだりか?そんな気がする。カリッがヤバすぎて息できなかったのを思い出してきた。多分ここですね。
1番強く助けてくれって思ったのは青春アミーゴ歌われた時かも。助けてくれ ミ・アミーゴはこっちの台詞だが?と思ったが、私にはアミーゴがいないのであった。もちろんアミーガもいない。青春アネーゴから繋ぐとかいう無理やりさと青春アミーゴを歌われること(青春アミーゴという曲の文脈だけでなく、恐山さんが片方のパートをしっかりと歌うこと含め)で爆笑とエモーショナルで感情の乱高下がすごかった。
芋づる式に爆笑の記憶が蘇ってきたので書いとくと最後の冬の花火でフライングしてる時エンディングでいい感じになってるのに2人とも回転して客席に背中向けちゃってるのメチャクチャ面白かったですね。しまらね〜。まぁプロじゃないからね、ちょっと露出が多いタイプの仕事をしている会社員ですからね。フライング慣れてないからね、回転しちゃうよね。作り込まれた面白さだけでなく、そういうハプニング的面白さもあって良かったですね。これが永田さんの言うイベントの醍醐味かも。醍醐味で言えば紙食べちゃったハプニングもすごかったですね。ちゃんと吐き出したとこ含めて凄かったし、普段からああいうやり取り(見える場所に置こうとしてしまう→ゴミ箱に捨てるよう案内する)してんだろうなという質感に殴られたオタクもいると思います。いるよね? いると言ってくれ。
エモーショナルの最大瞬間風速でいえば、公録が始まった瞬間に2人がサムネイル画像同様に向かい合ったときの風速すごかったな。ウオ……と言葉を失う感覚。
多分「ここでさぁ、2人で向かい合ってサムネっぽくしたらさぁ……エモくない?」みたいなやり取りがあって、人工のエモ(人工のエモ?)なのだろうというのを感じ取れてなおエモいと思う。どういう心の動きなんだろう。自分でもまだ解体しきれていない。
仕事の一環とはいえ、彼らが6年も毎週毎週10〜30分前後の音声作品を録音・公開してきたという事実がエモの源泉である気はしている。仕事の一環であればこその尊さもあるという話は今回は置いておくとして、まぁ、単純化すればいつも写真で見ているもの(しかも撮影は何年も前)が動画で見られたことの感動だとは思う。それにもう少し文脈が乗っている感じ。そんな感じ。
本当に、作り込まれた良いイベントだったなぁ。
もっと投げ銭すればよかった。せめてグッズを買おう。


そんなこんなで一昨日の夜は神経が興奮してしまって、どういう回路か分からないが、高校生の頃からわたしの頭の中にいる百合作品の子たちを出力したい!という衝動にかられ、アップルペンシルを走らせ、描き終わったら電池が切れたように寝た。
本当にどういう回路?と思ったのだが、恐山さんもイベント後二次創作小説を書き殴ったとのことで(ソース:居酒屋のウーロン茶マガジン)、どうやらなにか“そういうの”を刺激するイベントだったらしいです。


昨日はちょっと落ち着いて、部屋を掃除したり何たりした後に古本屋と雑貨屋に出かけた。どちらも街にある個人経営の小さなお店で、わたしはその雰囲気をかなり気に入っている。
古本屋に行ったのは、口に出して読むものを買いたいと思ったからである。仕事ではリモートが多いうえ、夜勤が続けば本当に人と会話することが減る。1番最近発話したのが、3日前のコンビニ店員さんへの「レジ袋大丈夫です」、みたいなことになる。さすがに口から言葉を出す機会を自発的に作らねばと思い、なにか詩集を買おうと思った。ずっと前から触れたいと思っていた、石川啄木の句集とか最果タヒさんの詩集があればいいなと思って古本屋に行った。そしたら見事どちらも置いてあったので買った。これに目を通す時間、口を動かす時間を作ろうと思います。
詩歌というものに興味がありつつ、今日まであまり触れてこなかった。普段からわりと歌詞で音楽を聴いているので、その部分と近い箇所をはたらかせればちゃんと受け取れるのだろうけど、詩歌は受け取るペースが掴めなかった。音楽に乗っていればそれに合わせて感受性をはたらかせればよいのだけど、詩歌というのは大抵結構な数が集まって掲載されている。わたしは活字を追うペースがなまじ早いので、読むスピードに合わせると感受性をはたらかせるスピードが間に合わない。感受性をはたらかせようと思えばかなり際限なくはたらかせられるので、感受性にスピードを任せると、一つ一つに長い時間を取られて読み進められない。だから今回、音読目的で購入したのは我ながらかなり良いのではないだろうかと思っている。目で読むよりも長い時間作品に浸れるし、同時に発音する間という時間制限?のようなものもある。もちろんわんこそばのように音読するつもりはないのだけれど、ある程度の時間の区切りみたいなものができやすい気がする。音読ライフを始めます。
さて古本屋さんに行った後は雑貨屋さんに行ってかわいいメガネ拭きを買いました。かわいいぬいぐるみが複数入荷されていたのでだいぶ衝動に負けそうになったのですが、家に既にかわいこちゃんがいるので我慢。
よい休日でした。


今日は夜勤。
うお〜。がんばりま〜す。